2025年11月11日、日本を代表する俳優・仲代達矢さんが92歳で亡くなったとの訃報が報じられました。その圧倒的な存在感で、戦後の日本映画界・演劇界を牽引し続けた巨星の逝去に、深い悲しみが広がっています。
仲代さんは、90歳を超えてもなお現役の俳優として舞台に立ち続けるなど、その情熱は衰えを知りませんでした。突然の訃報に、「病気だったのか?」と死因を気にする声や、ご家族(妻や子供)について知りたいという方も多いようです。
この記事では、2025年11月14日現在の情報に基づき、仲代達矢さんの死因について、そして葬儀の予定、妻・宮崎恭子さんや養女・仲代奈緒さんらご家族のこと、さらには「無名塾」主宰としての功績や、「人間の條件」「影武者」などで見せた圧倒的な経歴・功績について、詳細を調査しまとめます。
俳優・仲代達矢さんが死去 92歳の生涯に幕
2025年11月11日、日本の演劇界および映画界に計り知れない足跡を残した俳優であり、文化勲章受章者でもある仲代達矢(なかだい・たつや、本名:仲代元久=もとひさ)さんが亡くなったことが、複数の主要メディアによって一斉に報じられました。92歳という、まさに大往生でした。
仲代さんは、その彫りの深い顔立ちと重厚な演技力で、戦後の日本映画黄金期から現代に至るまで、常に第一線で活躍し続けた「巨星」です。彼の名は、国内だけでなく国際的にも広く知れ渡っています。
2025年11月の訃報
報道によれば、仲代達矢さんが亡くなったことが判明したのは2025年11月11日のことです。複数の情報ソースを分析すると、一部では2025年11月8日未明に息を引き取られたとの記述も見受けられます。92歳というご高齢でした。
仲代さんは東京都目黒区の出身で、貧しい少年時代を経て俳優座養成所に入所。そこから日本を代表する名優へと登りつめた、まさに「叩き上げ」の俳優人生でした。
その功績は幅広く、映画「人間の條件」や黒沢明監督作品「影武者」「乱」といった日本映画史に燦然と輝く名作で主演を務めただけでなく、自身が主宰する俳優養成所「無名塾」で後進の育成にも尽力されました。2015年にはその多大な功績が認められ、文化勲章を受章しています。
日本映画界の巨星墜つ
仲代さんの訃報は、映画ファンや演劇ファンだけでなく、日本中に大きな衝撃を与えました。彼は単なる「人気俳優」ではありませんでした。戦後の混乱期から高度経済成長期、そして現代に至るまで、日本の社会や人間の姿をスクリーンや舞台を通して描き続けた「時代の証言者」とも言える存在だったからです。
黒沢明監督や小林正樹監督といった世界的な巨匠たちから絶大な信頼を寄せられ、彼らの難解な要求に応え続けることで、日本映画のクオリティを世界レベルに押し上げた立役者の一人であったことは間違いありません。
また、教育者としての一面も特筆すべき点です。妻・宮崎恭子さんと共に設立した「無名塾」からは、役所広司さんや若村麻由美さんといった、現在の日本エンターテインメント界に欠かせない実力派俳優が数多く巣立っていきました。仲代さんの情熱と哲学は、彼ら「無名塾」の卒業生たちを通じて、今もなお受け継がれています。まさに「巨星墜つ」という言葉がふさわしい、大きな喪失と言えるでしょう。
仲代達矢さんの死因は何だったのか?病気の可能性は?
90歳を超えてもなお、精力的に活動を続けていた仲代達矢さん。その突然の訃報に、多くの方が「死因は何だったのか」「病気を患っていたのではないか」と心配されています。
公表された死因について
仲代達矢さんの訃報を伝える複数の報道内容を精査すると、一部の情報では「2025年11月8日未明、肺炎のため死去した」と記載されています。92歳というご高齢であったことを考えると、肺炎が直接的な死因となった可能性は考えられます。
ただし、2025年11月14日現在、共同通信やスポーツ報知といった大手メディアの第一報では、具体的な死因については明記されていません。「死去したことが11日、分かった」という事実のみが報じられているケースも多く、所属事務所やご遺族からの公式な発表が待たれる状況です。
したがって、現時点では「肺炎により亡くなったと報じられている」という情報に留めておくのが適切かと思われます。
亡くなる直前までの精力的な活動
仲代さんが「長く病床に伏していた」という印象は、ほとんどありません。それどころか、亡くなる直前まで驚くほど精力的に活動を続けておられました。
その事実は、以下の活動歴からも明らかです。
- 2025年6月:舞台「肝っ玉おっ母と子供たち」主演
仲代さんが「第二の故郷」と呼んだ石川県七尾市の能登演劇堂で、無名塾の公演「肝っ玉おっ母と子供たち」に主演。これは能登半島地震の復興公演としても位置づけられており、仲代さんの並々ならぬ情熱が注がれていました。一部の観劇したファンのコメントによれば、この役は「出ずっぱりで大変な体力を必要とする」とのことで、90代でこの役を演じきったことに感嘆の声が上がっています。 - 2025年9月27日:トークショー登壇
同じく能登演劇堂の開館30周年と、無名塾と同演劇堂の交流40周年を記念するトークショーに登壇。元気な姿を見せ、能登への熱い思いを語っていました。 - 2026年3月:次回作の予定
さらに驚くべきことに、来年2026年3月には、能登生まれの絵師・長谷川等伯を描いた舞台「等伯-反骨の画聖-」で、演出を務める予定がすでに決まっていました。
これらの事実から、仲代さんは文字通り「生涯現役」を貫き、最後の瞬間まで演劇人としての情熱を燃やし続けていたことがわかります。2015年に文化勲章を受章した際の「もう少しだけやろう、と思う」という言葉を、有言実行し続けた92年の生涯でした。
葬儀・お別れの会はどうなる?喪主は誰が務めるのか
日本映画界・演劇界に多大な功績を残された仲代達矢さん。その葬儀・告別式や、ファンが参列できる「お別れの会」の予定はどのようになっているのでしょうか。
葬儀・告別式の予定
2025年11月14日の時点で、仲代達矢さんの葬儀・告別式の具体的な日程や形式(家族葬か、一般参列が可能かなど)についての公式な発表は確認されていません。
仲代さんの遺志や、ご家族(養女の仲代奈緒さんなど)、「無名塾」の関係者の意向を尊重し、まずは近親者のみで静かに執り行われる可能性も考えられます。これほどの功労者ですから、続報が待たれます。
喪主についての情報
葬儀・告別式の日程と同様に、喪主がどなたになられるかについても、現時点では公表されていません。
仲代さんのご家族としては、1996年に先立たれた妻・宮崎恭子さんとの間に実子はおらず、恭子さんの妹の娘である仲代奈緒さんを養女に迎えています。こうしたご家族や、「無名塾」の関係者の方々が中心となって、葬儀が執り行われるものと推測されますが、憶測で語ることは控えたいと思います。
お別れの会の開催可能性
仲代達矢さんは、2015年に文化勲章を受章された日本の宝とも言える俳優です。また、無名塾を通じて数多くの後進を育て、そのお弟子さんたちは今や日本のエンターテインメント界の第一線で活躍しています。
そのため、ご家族や近親者による葬儀とは別に、後日、無名塾や東宝・松竹などの映画会社、あるいは演劇関係の団体が発起人となり、多くの関係者やファンが仲代さんにお別れを告げられる「お別れの会」や「偲ぶ会」が開かれる可能性は非常に高いと考えられます。
こちらも、正式な発表があり次第、追ってお伝えしていくことになるでしょう。
仲代達矢さんとは何者?その圧倒的な経歴と学歴
仲代達矢さんとは、一体どのような人物だったのでしょうか。その凄まじい経歴と、知られざる生い立ち、学歴について詳しく見ていきます。
生い立ちと苦難の少年時代
仲代達矢さんは1932年(昭和7年)12月13日、東京府東京市目黒区(現:東京都目黒区)に生まれます。本名を仲代元久(もとひさ)といいます。
お父様はハイヤー業を営んでいましたが、仲代さんが8歳のときに結核で亡くなられました。その後、お母様は港区青山の弁護士事務所に住み込みで働くようになり、仲代さんも転校を繰り返すなど、決して楽ではない少年時代を過ごしたようです。
戦争中は調布市仙川のお寺に疎開するなど、戦争の過酷さも体験しています。スポーツ報知の取材に対し、仲代さん自身が「いじめられ、毎日泣いた。内気で引っ込み思案だった」と当時を振り返っているように、後の重厚な演技からは想像もつかないような繊細な少年だったようです。
学歴と「俳優の道」への選択
仲代さんの最終学歴は、東京都立千歳高等学校(定時制)卒業です。
戦時中の混乱もあり、東京都立北豊島工業学校に入学するも空襲の激化で中退、その後、東京都立重機工業学校を卒業されています。戦後の学制改革を経て、アルバイトをしながら定時制の千歳高校を卒業しました。
ご本人が後に語ったところによると、当時は「学歴がなくて食っていくためにはボクサーか役者しかなかった」という切実な思いがあったようです。
実際にボクシングも約1年半経験されましたが、ある人から「顔がいいのだから」と俳優の道を勧められ、人生が大きく変わっていきます。高校卒業後、俳優座の公演で千田是也さんの演技に深く感銘を受けたことが、その決意を決定的なものにしました。
俳優座養成所時代
1952年(昭和27年)、仲代さんは俳優座養成所の試験を受験し、見事合格。第4期生として入所します。この時の受験料は、競馬場のアルバイトで出会った人物が出してくれたというエピソードも残っています。
この俳優座養成所第4期は、まさに「黄金世代」でした。同期には、
- 宇津井健さん
- 佐藤慶さん
- 佐藤允さん
- 中谷一郎さん
など、後に日本の映画やドラマを支えることになる錚々たる顔ぶれが揃っていました。特に佐藤允さん、中谷一郎さんとは、後に岡本喜八監督作品の常連となり「喜八一家(ファミリー)」と呼ばれるようになります。
養成所時代は、バーで働きながら役者修業に励むなど、貧しい生活は変わらなかったと言われています。
映画デビュー『七人の侍』での原点
仲代達矢さんの輝かしいキャリアの「原点」は、意外なところにありました。1954年(昭和29年)、養成所在籍中に、あの黒沢明監督の不朽の名作『七人の侍』にエキストラとして出演しています。
役柄は、セリフのない「通りすがりの浪人」役。あるファンの方のコメントによれば、その出演時間は「わずか3秒ほど」だったと言います。
しかし、この3秒は伝説的なエピソードを生みました。時代劇の歩き方ができず、ぎこちない動きだった仲代さんに対し、黒沢監督から「歩き方が変だ!」と怒声が飛びます。このワンカットを撮るためだけに、朝の9時から午後3時まで、実に半日もの時間が費やされたというのです。
この時、仲代さんは「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めたとされますが、皮肉にもこの強烈な「ダメ出し」こそが、世界のクロサワの記憶に仲代達矢という存在を刻み込むきっかけとなりました。後に『用心棒』で敵役に抜擢された際、黒沢監督からこの時のことを持ち出されたと言われています。
仲代達矢さんの妻・宮崎恭子さんとはどんな人?再婚はした?
仲代達矢さんの92年の生涯を語る上で、絶対に欠かすことのできない存在が、妻の宮崎恭子(みやざき やすこ)さんです。
妻・宮崎恭子さん(隆巴)の経歴
宮崎恭子さんは、1931年(昭和6年)5月15日、長崎県長崎市生まれ。お父様は裁判官で、一家は転勤に伴い福岡市や大分市などで暮らしました。妹は、後にフジテレビのアナウンサーとなる宮崎総子さんです。
恭子さんは名門・女子学院を卒業後、1950年(昭和25年)に俳優座養成所に入所します。つまり、1952年入所の仲代さんから見れば「先輩」にあたります。
当初は女優として活躍されていましたが、仲代さんとの結婚後は、その才能を演出家、そして脚本家として開花させます。脚本家としては「隆巴(りゅう ともえ)」という筆名を使い、『砂の器』(1977年フジテレビ版)や、仲代さん主演の映画『いのちぼうにふろう』(1971年)などの脚本を手掛けています。
仲代達矢さんとの結婚と二人三脚の歩み
二人の出会いは、1955年(昭和30年)の舞台『森は生きている』での共演でした。当時、仲代さんは22歳、恭子さんは24歳(※生年から計算)。先輩後輩の関係から恋愛に発展し、1957年(昭和32年)に結婚されました。
結婚後、恭子さんは女優業から一歩引き、演出家・脚本家として夫・仲代達矢を支える道を選びます。しかし、それは単なる「内助の功」ではありませんでした。二人は芸術的なパートナーとして、対等に意見をぶつけ合い、共に作品を創造していく「戦友」のような関係性でした。
スポーツ報知の追悼記事でも、恭子さんは「脚本家で演出家」と紹介されており、二人が公私にわたる最強のパートナーであったことが伺えます。
無名塾の共同創設
二人の二人三脚の歩みは、1975年(昭和50年)、「無名塾(むめいじゅく)」の創設という形で結実します。
「有名な役者も無名に返って修業する場があるべき」という共通の理念のもと、私財を投じて俳優養成所を設立したのです(仲代さんが俳優座を正式に退団するのは1979年)。
無名塾では、仲代さんが主宰・主演として塾を牽引し、恭子さんが演出家としてその作品世界を構築するという、見事な役割分担がなされていました。恭子さんは『ソルネス』『マクベス』など、無名塾の数々の重要公演で演出を手掛け、その芸術性を高めることに大きく貢献しました。
妻・恭子さんとの死別と再婚の有無
公私ともに仲代さんを支え続けた宮崎恭子さんでしたが、1996年(平成8年)6月27日、膵臓がんのため65歳という若さでこの世を去りました。
最愛の妻であり、無二の芸術的パートナーであった恭子さんを失った仲代さんの悲しみは想像を絶するものでした。スポーツ報知の記事によれば、仲代さんは当時を振り返り、「妻を亡くし、一時は『3年間、記憶がないほど』の喪失感にも襲われた」と語っています。
文化勲章を受章した際の記者会見では、自身の隣に、恭子さんが生前愛用していた椅子をそっと置く仲代さんの姿がありました。その姿からは、恭子さんへの変わらぬ深い愛情と、二人で歩んできた道への誇りが感じられました。
恭子さんの没後、仲代さんが再婚されたという公表された情報はありません。仲代さんにとって、宮崎恭子さんは生涯でただ一人の、かけがえのないパートナーであり続けたのでしょう。
仲代達矢さんの子供は誰?
仲代達矢さんと宮崎恭子さんご夫妻の家族構成、特にお子さんについて関心が集まっています。
実子の有無について
仲代達矢さんと妻・宮崎恭子さんの間には、実のお子さんはいませんでした。
宮崎恭子さんのWikipedia情報によれば、ご夫妻は1962年(昭和37年)に死産を経験されており、その後はお子さんに恵まれなかったとされています。この経験が、二人の間に一層強い絆をもたらしたのかもしれません。
養女・仲代奈緒さん(女優・歌手)
実子はいませんでしたが、仲代さんご夫妻には養女が一人いらっしゃいます。それが、現在、女優・歌手として活動されている仲代奈緒(なかだい なお)さんです。
奈緒さんは、妻・恭子さんの実の妹である宮崎総子(みやざき ふさこ)さん(元フジテレビアナウンサー)のお嬢さんです。つまり、仲代さんご夫妻にとっては「姪」にあたる存在でした。
宮崎総子さんが離婚されたことなどを機に、お子さんのいなかった仲代さんご夫妻が奈緒さんを養女として迎え入れ、実の娘同然に愛情を注いで育てられました。奈緒さんも「無名塾」の舞台に出演するなど、ご両親の背中を追って芸能の道に進まれています。
仲代達矢は若い頃何してた?何が凄い?
仲代達矢さんの訃報に際し、特に若い世代からは「仲代達矢さんとは、具体的に何が凄かったのか?」という声も聞かれます。彼の功績は、単に「昔の有名な俳優」という言葉では到底語り尽くせません。
功績①: 五社協定に縛られなかったフリーランスの道
仲代さんのキャリアの凄さを語る上で欠かせないのが、その活動形態です。1950年代から60年代の日本映画界は、東宝、松竹、大映、東映、日活の大手5社が絶大な力を持つ「五社協定」の時代でした。
俳優は基本的にいずれかの会社と専属契約を結び、その会社の作品にしか出演できませんでした。しかし、仲代さんは俳優座での舞台活動への強いこだわりから、大手5社すべてからの専属契約の誘いを断り、「フリーランス」の道を選びます。
これは当時としては極めて異例な選択でしたが、この選択こそが仲代さんのキャリアを決定づけました。あるファンの方のコメントにもあるように、仲代さんご自身が「フリーだったから5社協定に縛られず、いろんな映画作品、いい監督、俳優、女優に出会えたことが財産だった」と語っていたとされます。
この自由な立場があったからこそ、東宝の黒沢明監督、松竹の小林正樹監督、大映の市川崑監督といった、会社の垣根を超えた巨匠たちの作品に次々と出演することができたのです。
功績②: 小林正樹監督との出会いと『人間の條件』
フリーランスの道を選んだ仲代さんの才能を最初に見出し、そのキャリアを決定づけたのが、巨匠・小林正樹監督です。
1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけ、全六部作、総上映時間9時間31分という前代未聞の超大作『人間の條件』の主人公・梶役に抜擢されます。
この作品で仲代さんは、戦争という極限状態の中で人間性を失うまいと苦悩する主人公を演じきり、スター俳優としての地位を確立しました。小林監督は、仲代さんの演技を「まさに天才」とまで評したと言われています。
その後も『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)と、小林監督作品の「顔」として数々の名演を残しました。特に『切腹』で見せた鬼気迫る演技は、今なお多くの映画ファンに「仲代達矢のベストアクト」として語り継がれています。
功績③: 黒沢明監督との関係『影武者』『乱』
仲代達矢のキャリアは、世界のクロサワこと黒沢明監督抜きには語れません。『七人の侍』でのエキストラ経験(前述)を経て、仲代さんは黒沢作品の常連となっていきます。
- 『用心棒』(1961年) / 『椿三十郎』(1962年)
三船敏郎さん演じる主人公の「敵役」として、強烈なニヒリズムと色気を放ちました。特に『椿三十郎』のラスト、三船さんとの一瞬の決闘シーンは、その緊張感と凄まじさで日本映画史に残る伝説となっています。 - 『天国と地獄』(1963年)
冷静沈着に誘拐犯を追い詰める警部役で、知的な側面も見せました。 - 『影武者』(1980年) / 『乱』(1985年)
三船敏郎さんが黒沢組を離れた後、後期黒沢作品の「主役」として、その重責を担いました。『影武者』では、主演俳優・勝新太郎さんの降板という緊急事態の中、急遽代役として主演(武田信玄とその影武者の一人二役)を務め上げ、作品をカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)受賞へと導きました。
『乱』(1985年)では、シェイクスピアの『リア王』をベースにした老武将・一文字秀虎を熱演。あるファンの方のコメントによれば、「膝から崩れ落ちるシーンで黒澤監督は何十テイクも撮り直しさせた」といい、最後は仲代さんが本当に疲れ果てて崩れ落ちたところでOKが出たという、黒沢監督の妥協なき演出と、それに応え続けた仲代さんの役者魂を象徴するエピソードが残っています。
功績④: 後進育成への情熱「無名塾」の功績
仲代達矢さんのもう一つの偉大な功績が、俳優養成所「無名塾」の主宰です。
1975年(昭和50年)、妻・宮崎恭子さんと共に設立。1979年(昭和54年)には、自身が長年所属した俳優座を退団し、無名塾での活動に軸足を移します。
無名塾は単なる俳優養成所ではなく、仲代さんの演劇哲学を学ぶ「私塾」であり、その厳しさとクオリティの高さで知られました。ここから、現在の日本エンターテインメント界を支える、数多くの実力派俳優が巣立っていきました。
- 役所広司さん(芸名の名付け親は仲代さん。「役所勤め」だったことから)
- 若村麻由美さん
- 益岡徹さん
- 滝藤賢一さん
これらはほんの一例にすぎません。あるファンの方のコメントにもあるように、「知名度の高い方以外にも、無名塾には実力派の素晴らしい役者さんがたくさんいらっしゃいます」。仲代さんは、日本の演劇文化の「土壌」そのものを豊かにした、偉大な教育者でもありました。
功績⑤: 晩年まで貫いた「生涯現役」の舞台魂
仲代さんの凄さは、そのキャリアの「長さ」と「密度」にもあります。2015年(平成27年)に文化勲章を受章。これは俳優として最高の栄誉の一つですが、仲代さんはそれに満足することなく、演劇への情熱を燃やし続けました。
受章時のインタビュー(スポーツ報知)では、「現役の俳優生活もそろそろ(終わりか)と思っていたところ、こんな賞をいただき。もう少しだけやろう、と思う」と語っています。
その言葉通り、90歳を超えてもなお、舞台「肝っ玉おっ母と子供たち」で主演を務めました。前述の通り、この役は非常に体力を消耗する役柄であり、90代でこれを演じることは「感嘆」に値すると、観劇したファンも証言しています。
また、石川県七尾市の「能登演劇堂」を「第二の故郷」と呼び、30年近くにわたって公演を続け、地域文化の振興にも大きく貢献しました。2025年6月の公演は、能登半島地震の復興公演でもあり、亡くなる直前まで、演劇を通じて社会と繋がろうとする強い意志を示し続けました。
仲代達矢さんの死去に対するネット上の反応とは?
仲代達矢さんの訃報は、SNSやニュースのコメント欄を通じて瞬く間に拡散され、世代を超えた多くの人々から追悼の声が寄せられました。そこから見えてくるのは、仲代達矢という俳優がいかに深く愛され、尊敬されていたかという事実です。
昭和の名優を悼む声
最も多く見られたのは、「昭和の時代」を象徴する最後の名優の逝去を惜しむ声です。
「昭和の名優が次々亡くなり寂しい限りです。」
「また昭和の名優が一人お亡くなりになってしまいましたね。」
「日本映画・演劇界を支えたレジェンドが遂に召されました。さようなら、真の名優、俳優の中の俳優。」
これらのコメントからは、三船敏郎さん、高倉健さん、菅原文太さんといった同時代の名優たちと並び、仲代さんが「昭和」という一つの時代の「顔」であったことが強く認識されていたことがわかります。その時代が終わっていくことへの、深い喪失感が伝わってきます。
圧倒的な「存在感」と「演技技術」への再評価
次に目立ったのは、仲代さんの俳優としての本質的な「技術」や「資質」を称賛する声です。
「画面に映る、それだけで圧倒的な存在感で他を圧倒する。そんな役者さんはもう数えるほどしかしない。仲代さんもそんな一人でした。」
「其れは台詞が聞き取り易い事でした。今の俳優さんにもよるのですが、早口でも良いのですが人によってはゆっくりな台詞でも聞き取りにくい台詞回しの方も居られるので、もっとはっきりと喋れよと思う事もしばし。」
「(『乱』のロケで)その声は 低く太いのに 慈愛というか安心感というのか 緊張感をほぐしてくれる響きでした」
単に「かっこいい」「人気がある」というレベルではなく、「存在感」「発声技術(滑舌)」「声の響き」といった、俳優としての根幹をなす技術が、時代や世代を超えて観客に強く記憶されていることがわかります。これは、俳優座で培われた新劇の確かな基礎と、それを生涯磨き続けた仲代さんの努力の賜物でしょう。
黒澤作品・小林作品への言及多数
やはり、仲代達矢さんを語る上で欠かせないのが、二人の巨匠の作品です。コメント欄は、具体的な作品名を挙げ、その衝撃を語る声で溢れかえりました。
「実は最近黒澤明監督の椿三十郎を見ました。ラストの三船敏郎との一騎打ち凄かったです。」
「仲代達矢さんと言えば黒澤明監督の映画『乱』でのエピソードが有名。」
「シリアスな『切腹』『人間の条件』からコミカルな『殺人狂時代』、若き頃から重厚な演技力で日本映画・演劇界を支えたレジェンド」
「黒澤映画も、もちろんですが小林正樹監督の『切腹』で見せた仲代さんの鬼気迫る演技は、深く心に焼き付いて離れません。」
『椿三十郎』『乱』『切腹』『人間の條件』…。これらの作品名が即座に挙がること自体が、彼の演技がいかに強烈なインパクトを観客に与え続けてきたかの証明です。特に黒沢明監督と小林正樹監督作品での名演が、多くの人にとっての「仲代達矢像」を形作っていることは明らかです。
無名塾や人柄を偲ぶ声
最後に、仲代さんのもう一つの顔である「教育者」としての一面や、その「人柄」を偲ぶ声も印象的でした。
「仲代さんが出ていらっしゃらない無名塾公演もよく観劇して、お弟子さんたちのご活躍を目の当たりにしてきました。皆さん、仲代さんと奥様の宮崎恭子さんが演劇界に遺された、大事な宝だと思います。」
「映画『乱』の姫路城ロケでご一緒させていただきました。当方は学生アルバイトのエキストラ。にもかかわらずホテルのメイク室でご一緒させていただいた時に『本日はよろしくお願いいたします』と声を掛けていただきました」
「フリーだったから5社協定に縛られず、いろんな映画作品、いい監督、俳優、女優に出会えたことが財産だったと話していました。」
スターでありながら驕ることなく、学生アルバイトのエキストラにも丁寧に挨拶をする人柄。そして、妻・恭子さんと共に人生を捧げた「無名塾」という名の偉大な遺産。仲代達矢さんは、俳優としてだけでなく、一人の人間としても、多くの人々から深く尊敬されていたことが伝わってきます。
仲代達矢さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。